2011年3月11日に東日本大震災が起き、BUMP OF CHICKENはミュージシャンとしてできることを考え、チャリティとしてシングル曲「smile」の収益の全てを復興義援金として寄付しました。
この記事では、BUMP OF CHICKENの復興支援活動や、ツアーPATHFINDERで藤原基央が歌った「ダニーボーイ」について紹介しています。
BUMP OF CHICKENの復興支援活動
シングル「smile」の収益を全て義援金として寄付
バンプの20枚のシングル「smile」はソフトバンク「復興支援ポータルサイト」CMソングに起用され、収益は全て3.11東日本大震災の義援金として全額寄付しています。
シングルとしてリリースされた「smile」は藤原基央の弾き語りの曲ですが、メンバー4人でアレンジするよりも早く被災者へ曲を届けたいという気持ちが強かったのだと思います。
また制作に関わったスタッフ全員が無償で協力しています。義捐金の総額は6962万7833円となりました。
ライブでチャリティバンドを販売
GOLD GLIDER TOURでは約3000万円の義援金
GOLD GLIDER TOURで販売されたチャリティバンド
BUMP OF CHICKENはCDの売上の寄付のほかにも、ライブグッズでチャリティーバンドを販売し、売上の全てを義援金として寄付しました。
2012年に行われた「GOLD GLIDER TOUR」で販売されたチャリティーバンドの収益は約3000万円で、その前のツアーの「GOOD GLIDER TOUR」の収益と合わせて約4000万円を2012年8月31日付けで日本赤十字社に送金を完了しました。
その後も続くチャリティバンド
チャリティーバンドの販売は「GOLD GLIDER TOUR」以降も続きました。
2014年の「WILLPOLIS」では引き続き東日本大震災への義援金として、2016年のツアー「BFLY」では、2016年4月14日に発生した熊本地震への義援金として寄付されました。
熊本地震チャリティバンド
熊本地震への復興義援金は総額¥35,226,680になり、2016年9月30日(金)付けにて、日本赤十字社へ送金されました。
BUMP OF CHICKENの震災に対する思い
アルバム『RAY』の発売日が変更
1月下旬発売予定から3月12日発売へ
アルバム『RAY』の当初の発売予定日は2014年1月下旬でした。しかし、制作が間に合わないという理由で同年3月12日に変更されました。
CDは発売日の前日には店頭に並び、購入できるようになります。つまり実質的な発売日は3月11日になるのです。
通常、CDは水曜日に発売するという決まりはありますが、数多くある日付から、3.11に関係する日付を選んだのには何か意図があると感じずにはいられません。
震災の被害にあった地域でのライブ
震災後のツアーファイナルに選んだ場所は宮城県
セキスイハイムスーパーアリーナ/出典:グランディ・21
2011年の東日本大震災の後に初めて行われたツアーは「GOOD GLIDER TOUR」(2011年-2012年)と「GOLD GLIDER TOUR」(2012年)でした。
このツアーのファイナルに選んだ場所は宮城県(仙台)にある「セキスイハイムスーパーアリーナ」(通称セキアリ)でした。
宮城県は津波や震災の被害に会った地域であり、セキアリは震災の時に遺体安置所として使用されていました。震災からの復興のために活動してきてきた彼らがツアーファイナルで宮城県を選んだことには大きな意味を感じます。
PATHFINDERで歌ったダニーボーイ
2017年に行われたPATHFINDERの宮城公演は再び仙台の「セキスイハイムスーパーアリーナ」で行われました。
ツアーを通して1曲目に披露された曲は「GO」でしたが、ボーカルの藤原基央はイントロ部分でアイルランド民謡の「ダニーボーイ」のメロディーを口ずさんでいました。「ダニーボーイ」はしばしば“別れの歌”として解釈されます。(Wikipediaより)
ダニーボーイを歌ったのは震災のあった都市のみ
ツアー中に藤原がダニーボーイを口ずさんだのは仙台、福岡、神戸公演でした。(SNSの情報より)
仙台と神戸は過去に震災の被害があった都市であり、福岡は熊本に隣接する県です。(このツアーで九州での公演は福岡のみ)
このことから藤原は震災で亡くなった人たちへの弔いの歌として歌ったのではないかと思われます。ライブ中のMCでは震災などには一切触れていませんでした。
神戸→阪神淡路大震災(1995年)
熊本→熊本地震(2016年)
あとがき
藤原基央が歌った「ダニーボーイ」の真意については本人に訊かない限りわかりません。
しかし、“生きること”をテーマに歌い続ける彼にとって、生きたくても生きれなかった人達へ何か弔いの気持ちがあったことは確かでしょう。
復興支援も死者を弔うことも、どちらも音楽を通して行ったというのは、彼がミュージシャンとして音楽の力を信じているからなのかもしれません。