『カルマ』歌詞解釈~1と0の間の意味とは?~

BUMP OF CHICKENの「カルマ」の歌詞解釈です。
カルマの意味は日本では業(ごう)と訳されてます。業とは簡単に説明すると行為です。

カルマとは仏教の言葉で自分の行なった行為にはどこかで必ず自分に返ってくる、魂は輪廻転生を繰り返し前世での行ないも現世で自分に返ってくる(善いことも悪いことも)。因果応報みたいな意味ですね。
それでは歌詞を見ていきます。

(2018.07.25)改めてカルマの解釈をしてみました。

関連記事

BUMP OF CHICKEN(バンプオブチキン)の楽曲「カルマ」を公式情報やインタビューを元に解説していきます。この記事では楽曲の基本情報や歌詞の意味の考察、制作背景などについてご紹介します。「カルマ」を聴く際に参考にして下さい。[…]

バンプオブチキンのカルマのジャケット
スポンサーリンク

ガラス玉ひとつ落とされた

ガラス玉ひとつ 落とされた 追いかけてもうひとつ落っこちた
ひとつ分の陽だまりに ひとつだけ残ってる

ガラス玉は魂のことでしょう。それ以外考え付かない。
これは前のなにかの記事でも書きましたが
この世界では2つで1つ、光があるから影がある、表があるから裏がある。

地面を蹴れば同じ力で足に返ってくる。自分が在ると認識できるのも相手という相反するものがあるからです。
1つの事象が起こった時に同時に相反する事象が在るわけです。

魂も例外ではなくて1つの叶えたい想いがあって体を探してもこの世界に来た時に想いは2つに分かれてしまいます。
そういうわけでガラス玉(魂)が落ちた後に“追いかけてもうひとつ落っこちた”ってなるわけですね。

できるなら同じ体に入りたいんでしょうが心臓一つににつき魂は一つしか入れません。

心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る
奪われない様に 守り続けてる

これもまた前に書いた記事『ゼロ』歌詞解釈、考察~瞳の色は夜の色 透明な空と同じ黒の意味~で説明したんですが魂が宿るのは心臓であって心臓が活動を続ける限り魂をその人の体に留めておける。つまり心臓が魂を奪われないように人間の体の中で守り続けてる。

汚さずに保ってきた手でも 汚れて見えた
記憶を疑う前に 記憶に疑われてる

これは最初に説明したカルマのこと。現世ではまだ何もしていなくても前世の行ないを引き継いでいる。
自分の記憶を疑ったが、逆に前世、魂に自分が汚さずに保ってきたことに対し、このまま何もしないつもりか!?みたいな感じで疑われる。

必ず僕らは出会うだろう 同じ鼓動の音を目印にして
ここに居るよ いつだって呼んでるから

くたびれた理由が 重なって揺れる時
生まれた意味を知る

同じ鼓動の音とあるので≒同じ心臓

あと何に対して鼓動が高鳴るのか?ワクワクするもの、夢などを目印にしてそれを追いかけていけば魂に会える。まあ生きてる内は魂に会えるわけがないのでここは魂が見せたかったもの、伝えたかったものなどそういったものに会えるよって意味だと思います。“必ず”と言ってるのに“だろう”と言ってるのはそういう意味だと思います。

くたびれた理由→行動した理由が魂と同じになった、同調した時に生まれた意味を知る

1と0の間

存在が続く限り 仕方無いから場所を取る
ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない

ガラス玉ひとつ 落とされた 落ちた時 何か弾き出した
奪い取った場所で 光を浴びた

1番の歌詞で説明したように心臓一つにつき魂は一つなので二つは入れない。
そしてこの世界に入った時に2つに分かれるということで“落ちた時 何か弾き出した”二つに分かれたってことですね。

個人的に“奪い取った場所で 光を浴びた”のところがすごく好き!

数えた足跡など 気付けば数字でしか無い
知らなきゃいけない事は どうやら1と0の間

要は何歩歩いたかじゃなくて、どうやって0から1歩踏み出したか。その行為が生じるまでの過程が大事だってこと。

科学に決定論だか運命論だかそんなみたいのがあって
例えば滑り台の上からボールを転がしたらボールはその他に余計な力が加わらなければ必ず下へ転がります。

ここでいうと0はボールを転がす前で1は転がって落ちて止まった所。転がす前からこのボールの運命って決まってます。逆に言うとボールが落ちたという結果には必ず何かしらの原因があるということ。

たしかこういうのが決定論だったハズ!間違ってたらすいません。
1と0の間って“想い”とか“エネルギー”など1が生じる前の見えないものなんだと思います。
歩くという行為を見てみます。

踏み込む前が「0」で一歩進んで足をつけた所が「1」
足が地面を蹴り、足が地面を蹴ったという行為の見返りにもらえるのが一歩進むということです。
因果応報に似てますよね。

地面を蹴ったという行為が一歩進むということになって自分に返ってくるわけです。
なにが言いたいかというと、足が地面を蹴り、足が1歩目の着地をするまでの間、足が浮いてる間って一体なんなんでしょうね?

蹴った時点で0ではなくなっています。地面を蹴ったけどまだ一歩進めず足にはまだ蹴った時のエネルギーが残ったままの状態。地面を蹴るのに踏み込ませたものはなんだったのか?

これって結局のところ想いですよね。
今の自分や環境やいろいろな行為の原因、そうさせた「想い」を知らなきゃいけないってことですね
他には自分が生まれてきたこと。生まれたことが結果なのでこれが「1」。

なのでその「1「を生じさせた原因があるってこと。つまり生まれてきたことには意味があるんだよってこと。
こんなふうに他にも1と0の間はいろいろな解釈ができますがそれを狙ってこの言葉を選んだのだと思います。



初めて僕らは出会うだろう

初めて僕らは出会うだろう 同じ悲鳴の旗を目印にして
忘れないで いつだって呼んでるから
重ねた理由を二人で埋める時  約束が交わされる

ここでいう僕らは自分と運命の人だと思います。ガラス玉を追いかけてもう一つ落っこちた方の人ですね。

同じ陽だまりに入れなかったので別の体に入り、もともと一つの魂だったので引かれ会う、ここでは呼んでいるからと書かれています。2人と言ってるので人間同士ですね。

魂のことはガラス玉に例えて“一つ”と数えていますからね。
重ねた理由というのは一番のサビにも出てくるように魂との想いを同調させること。

そして埋めるって言葉が引っ掛かったのですが、タイムカプセルのように大事に取っておくことと私は解釈しました。
自分の想いと運命の人の想いお互いが消せない大切な想いを持った時に出会う準備ができる。
ちなみにここでは二人はまだ出会ってません、歌詞からわかるように。

鏡なんだ 僕ら互いに
それぞれのカルマを 映す為の
汚れた手と手で 触り合って形が解る

これはそのままなんですけど、私たちはカルマを映し出す為の鏡のようなもの。

言い方を変えると、私たちの体は魂の想い、カルマ≒行為を映し出す為のもの。
私たちがした行動には原因がありその結果を映し出す為のもの。

汚れた手は人を殺したとか汚いものを触って汚なくなったとかではなくて畑仕事をして手が汚れるようにがんばった結果に生じてしまったもの。だからその汚れた手の原因、想いを知れば自分というものが解るってことだと思います。

ここに居るよ 確かに触れるよ
一人分の陽だまりに 僕らは居る

ひとつ分の陽だまりから一人分に変わってます。最初は心臓にある魂だけの想いだったものを自分の体を使い行動に移して想いを体で表現、代弁している。つまり行動と想いは同価値のもの、だから行動した体自体が魂なんだよってこと。

沈めた理由に十字架を建てる時

忘れないで いつだって呼んでるから 同じガラス玉の内側の方から
そうさ 必ず僕らは出会うだろう 沈めた理由に十字架を建てる時
約束は果たされる 僕らはひとつになる

死んだというか生が終わったって意味なんでしょうけど
カルマって仏教の言葉なのにお墓じゃなくてここで十字架ってちょっと変ですよね。
十字架の意味は贖罪・愛などのしるしなどの意味で使われます。

でもって贖罪は、善行を積んだりするなどの行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。
これも因果応報みたいです。

そして十字架って二本の木を交差させて作るわけですが、人と人が交わり合っているように思えます。しかも十字架は愛の象徴ですし。
なので自分と運命の人の想いが重なって初めてできること、前に言った約束ですね。もともと一つの想いだったのに分かれてしまって一人ではできなかったことが二人揃って初めてできるようになる。

僕らはひとつになるとありますが人と人はひとつにはなれないし同時に死ぬってことは無いと思うけど先ほど説明したように行為自体が魂と同価値のあるもの。

なので相手の行為を見たり、聞いたり、受け取ったりすることがそれだけで相手の想いと重なっているということになります。あと死んで魂とひとつになるって意味ももちろんあると思います。

あとがき

バンプの歌詞ってスピリチュアルな言葉を使う時があるけど同時に科学的に説明しているような感じがします。だから論理的に捉えることができて歌詞を見る人、曲を聴く人を納得させてしまうんでしょうね。

このカルマと言う曲は短い曲ですが、ものすごく深い意味が込められた曲だと思ってます。
この曲の伝えたいことは起こった事象に対してその原因を探るとかどういう想いでその行為をしたのか?

歌詞に出てくる1と0の間を知らなきゃいけないってことですね。

例えば道を歩いていて人とぶつかった。それに対してムカつくとか申し訳ないとか知らんぷりするとか人それぞれだと思います。

起こってしまった現象に対してどういう行動を取ったかとかどういう感情がこみ上げてきたとかは仕方の無いことでそれはその人それぞれのカルマがさせていること。

だったらその結果でなくその原因や想い、カルマと向き合ってみよう、そうすれば自分というものが見えてくるよってことなんじゃないでしょうか。

行為の原因には必ず結果があり始めたことは滑り台から転がるボールのようにガラス玉の想いを、宿った命を運んだ時に運命によって必ず結果へ導かれる、必ず出会うのでしょう。

スポンサーリンク