『虹を待つ人』歌詞解釈~みんな同じ雨の下の意味~

※この曲には新しくまとめた記事があります

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バンプオブチキンの虹を待つ人のジャケット

アルバム『RAY』収録曲、その光線(ray)の反射を利用して見ることができる虹を題材にした「虹を待つ人」の歌詞を解釈してみようと思います。

この楽曲は実写版「ガッチャマン」の主題歌として使用されましたが、その為に作ったということは全然なくて元々作ってあったものをガッチャマンの監督さんだか誰かに聴かせたらそれでオッケーということで採用されたみたいです。
印象に残ったのは“シンセサイザー”で作った音と何度も後ろで流れる“OH~♪”というコーラス、そして見えない壁。
私は最初、他人との間に距離を置くために作った壁、いってしまえば心の壁みたいなものだと考えましたが、それだと自分で作った壁が見えないというのはどうもおかしい。

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イントロからみなさんが想像するものはなんですか?

歌詞を見ていく前に、イントロに耳を傾けてほしいのですが
私は一番最初が白い光が駆け抜けて、その後のピアノ?の音で雨が上がり木々や草花についた露が太陽の光で反射してキラキラしていまにも虹が見えそうな風景を思い浮かべました。

勝手な推測ですが多くの方のイメージの中に光、雨、虹のどれか、または全部が入っていたのではないでしょうか?なぜこういったものを想像してしまったのかといったら答えは簡単で、それはタイトルが虹を待つ人だからです。また歌詞中にも雨や虹という言葉が使われています。

別のものを例に取って見てみると
例えば“おにぎり”

コンビニのものや家で作ったものまた海苔がついているかいないか?とか具は明太子とか形は三角か丸いか?とかおにぎりと言われてイメージするおにぎりは十人十色でしょう。
私たちは知らず知らずのうちに「言葉の檻」に囚われているのです。見えない壁とは「言葉の壁」ともいえるかもしれません。

見えない壁で囲まれた部屋とは?

 

見えない壁で囲まれた部屋 命に触れて確かめてる

自分という名前を持った人間。周囲の人はを私をどういう人間なのかそれぞれが違うイメージを持っています。歌詞中では見えない壁で“囲まれた”とありますので「周囲」の人たちの何人もの認識ということでしょう。

見えない壁で囲まれた部屋とは自分自身であり、その名前に対して周りの人がそれぞれ定義を付けて型にはめてしまう。
他者による自分へのイメージが壁である。

でもその壁は自分が作ったものじゃない。だから自分が自分である為の定義などないし他人の作った定義に合った生き方をしたりしなくていい。でもその壁に気づけなくていつのまにか他人の作り出した型にはまった人間になってしまう。
その他者が作りだした外側の自分と内側にある自分を比べて自分がどういう人間なのか定義を探して確かめている(命に触れて確かめているの部分)

世界に自分しかいなかったなら自分がどういう人間かわかりません。周りの認識がなければ自分が自分自身であることに気づけないからです。
誰かが自分を見た瞬間から壁が生まれ、自分という人間が認識されます。
歌詞中に「壁を壊せ」という言葉がないのはこのためで、自分で作ったものではないので壊せないし自分にしか見えないものだから「ドア」や「壁が見えたとき」という表現を使っているのでしょう。



他者からの認識によってできた壁

人間とは不思議なもので相手によって対応の仕方を変えてしまう生き物なんですよね。
自分は本来おしゃべりな性格だと思っている人でも相手が自分よりさらに話す人だったりすると案外聞き手側に回ってしまうんですよね。
これも理由は簡単でお互いが同時に話していたら会話は成立しないからです。

相手によって自分を変えてしまうこれは血が体を循環しているのと同じくらい当たり前のことで生活を潤滑に循環させるための人間に本来そなわっているものだと思っています。

そのうちの一面だけを相手は受けっ取って自分という人間をそういう人間だと認識する。その認識がしだいに周囲に広まって私に対する固定のイメージが出来上がる。
そして知らず知らずのうちに私はそのイメージに叶う人間になろうとしてしまう。

自由とは?

それから“自由”って言葉ですが辞書で意味を調べると、何にも束縛されたりすることなく自分の心のままに行動できることって書いてありますが赤ん坊のころは動けないので“初めからずっと自由”という意味にはいささか合わない気がします。
しかし“自由”という言葉を分解してみると、自と由となります。

自:この字だけで自分自身という意味があるみたいです。
由:理由、原因などという意味。由縁とも

つまり自分自身である理由という意味が自由であり、言い換えると自分らしくいることが自由なのではないでしょうか。

私たちは生まれたときから自分らしくいれるのです。

そのドアに鍵はない 開けようとしないから知らなかっただけ
初めからずっと自由

 

飛び込んできた音

 

眠れなかった体に 音が飛び込んで走る
目を閉じれば真っ暗 自分で作る色

眠れなかったとありますが何故かといったら文脈的にみて「言えない痛み」があったからなのでしょう。
その体に音が飛び込んできてその音をたよりに自分で色を作る。

“飛び込んで”というのはつまり自分の外部からの音。
この楽曲「虹を待つ人」のことを言っているのかもしれませんし、もしくは外部からの音全部を言ってるのかもしれません。

“音”と“色”という言葉をうまく使い、音色という言葉が隠れています。しかも音色もド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シの7つからできていて虹の7色と同じように表現しているがわかります。

そして自分の内側にある精神世界は誰にも認識することはできない私だけの世界。

言い換えると誰にも定義されていない世界。現実の世界でイヌは話したりしませんが精神世界ではイヌがしゃべろうがニャーと鳴こうが誰にも定義されてないので自分の好きなように物理法則なんて無視して自由に世界を作ることができます。

余談で光と音の性質(とばしてもいいですよ)

この曲は虹をテーマにしているにも関わらず光という単語が一切出てこないんですよね。

代わりに虹とは無縁の音が書かれている。
でも光と音って似ている部分もあるんです。
それは波の性質を持っているということ。

でも光は波であると同時に粒でもある。音は波の性質しかなく大気や物質がないと音を伝えることができません。光は大気などない真空の宇宙空間でも粒の性質を利用して移動可能です。音は宇宙空間では伝わらない。

そして光は視覚で見るもので音は聴覚で聞くものです。
ほんとうに音は波の性質しか持たないのかといったら私はそうは思いません。音があるところに物質あり。
物質という個体がなければ音は作り出せないのです。

もう一度要点を絞って説明すると
光は大気があるところでは波、大気のない宇宙では粒。波とは周りとの境目のない海のようなもの。つまり自分と周りの人の体が一つになり“全”となっている状態。

逆に粒は海のように一つになっているものではなく雨粒のように全体から切り離された“個体”。
そして音の場合は物体という個体が音という波を作り出します。しかも物体は分解して小さくしていくと原子という粒になります。

そう光も音もどっちも波と粒の性質を持っているのです。
音は物質が作り出す光のような存在ではないでしょうか。

光の見えない真っ暗闇でも音は聞こえる。その音から感じ取ったものをどうイメージするかは自分次第なんだよ意味だと思います。

言えないままの痛みとは?

 

言えないままの痛みが そっと寄り添って歌う
使い古した感情は 壊れたって動く

“言えないままの痛み”とは同時に“癒えないままの痛み”と掛けてあり一つの単語で二重の意味を込めた表現だと思います。
言えないままということは言葉で言い表すことができない。

特に精神的な痛み、例えば何かを失った時の痛み、苦しみなどは言葉言い表せるようなものでなく、ただ痛いというしかないでしょう。

しかし痛みがあるから人間はそれを乗り越えて強くなれる生き物であり逆に言えば痛みがなければ人間は強くなれないと思うんです。

ここでいう痛みとはまるで痛みに意思があるかように私たちに強くなってほしいと願って寄り添う様子を擬人化して表現したものだと思います。

そしてもう一つ別な視点から“言えないまま”という言葉。

この言葉を言い換えると“言葉にできない状態が続いている”という意味に取れます。
つまり正体不明の痛みを言葉に表そうとしているのです。

恋なんかがいい例で、初めて恋をしたときなんかはあの人を思うとドキドキするとか胸が苦しくなるとか正体不明の胸の痛みを経験したことある人は少なくないでしょう。

その胸の痛みの正体をあれこれ考えたり探ったりしていると、「ああ、そうか、これが恋なのか!」と
痛みの正体が恋という“言葉”であったと気づいたことでしょう。

痛みはいつも私に寄り添って静かに何かを伝えようとしている。

痛みが感情となって私を奮い立たせる。でもそこには他人の認識という見えない壁があって私を型にはめてしまう。そして型にはまってしまうがゆえに心のままに行動することができない。しかし、

そのドアに鍵はない 開けようとしないから知らなかっただけ
始めからずっと自由

 



冷たいままの痛みとは?

冷たいままの痛みが そっと寄り添って祈る
冷たいままの体を 温めようとしている

今度は言えないから冷たいに変わっています。これは何を表しているのか?
言えないままとは言葉で言い表せない状態と先に書きました。

なので言えないままの痛みは精神的な痛みとも解釈できます。
そして冷たいと感じるのは肉体ですよね。なので冷たいままの痛みとは肉体的な痛みのこと。しかもその後にわかりやすく、冷たいままの“体”と書いてあります。

注目してほしいのは体を温めようとしているのは“痛み”ということです。体ではありません。
体はたしかに熱を生み出し体を温めてくれますが、その温めるという行為を起こす引き金となっているのは痛みなのです。

生きようとする体を 音は隅まで知っている
目を開けたって同じ 自分で作る色

体の内側や外側からいろんなものが痛みや、感情、音となって何かを伝えようとしている。

自分がどんなにくじけそうになったり怖がったり、死んでしまいたくなったり、どれだけ世界を拒もうが私たちの体は必死で生きようしている。

弱くて臆病な自分に何かを伝えようと寄り添って祈っている。まるで生きていることには意味があることだと言うかのように。

そこから受け取ったメッセージ、イメージした世界を自分の心の中だけじゃなく目を開いたその目の前に広がる世界でも作っていける。

それが周りの誰にも見せたことのない新しい自分の一面であっても自分という人間の色は虹のように1つに縛られていない。

自分の色

見えない壁が見えた時には
その先にいる人が見える

例えば周りの人が私の色は青色だと定義したとしましょう。周囲の認識が多くなればなるほどその壁は厚くなっていきます。
その見えない壁に気づいた時、つまり周囲の決めた自分じゃなく、自分がどういう人間であるのか?

自分の心のままの自分に気づいた時にはその壁は周りが作ったものだとわかり、自分が本当は緑色になりたいと思い青色の以外の世界があることがわかる。

歌詞の最後の方に“どこまでもずっと自由”とありますので壁のドアをくぐり抜けたその先の世界でもまた他者からの認識という壁ができます。その世界でも変わらず自分自身でありつづけられることができる。

みんなが同じ雨に晒されている

虹を呼ぶ雨の下 皆同じ雨の下
うまく手は繋げない それでも笑う
同じ虹を待っている

“雨”には辛いこと、悲しみ、涙とかそういったイメージがありますが恵みの雨という言葉があるように良い意味でも使われます。
雨に打たれるということは体があることでもあります。体があるから辛いこともあれば楽しいこともある。

体があるから周りが認識してくれるし壁もできる、同時にそれが自分自身であることの証明。
みんなそれぞれの人が虹のようにいろいろな側面を持っているのにみんなそれに気づいていない。

周囲の人は一つの側面にこだわりそれに固執する。

集団の認識という固定概念という常識によって周りと違うことをする者は変な目で見られてしまう。
考え方の違い、感じ方の違いで人は傷ついたりして、果てには争いを生む。

「虹を待つ人」のMVを見た人は多いと思いますが。ほんとにただ、ただみんなが楽しそうにしている映像。
たしかレズビアンのような人達が移っていましたが、昔ほどでないにしろやはり今でも女同士で恋愛はおかしいと感じている人は多いでしょう。
じゃあなぜおかしいの?と訊ねたらきっと言葉を濁すかみんなと違うからという答えが返ってくるでしょう。

他者からの認識という雨

虹の正体は光。虹は雨粒に反射した光が角度を変えることで7色が見えるのです。
言い換えると、虹は光の違った側面なんです。

虹は虹でありながらその中にいくつもの色が喧嘩もせずにいっしょに手を繋いで寄り添っています。
私たちは体があるから他者からの認識の雨に晒される。
私たちにできることは壁に気付き、いろんな側面を持つ人間だということを周囲の人に見せてやることです。

私たち一人一人が虹のようにいろんな色の光を放てば他者からの認識を反射して虹を作ることが可能です。

虹を待つ人のジャケットについて

この曲をダウンロードした人はわかると思いますがジャケットがBUMPのメンバーが雨の下で濡れている写真。
虹を待つ人とありますが別に雨に濡れなくても虹は見れます。

それなのに彼らはカッパ、雨具を着て敢えて雨に濡れているように見える。
カッパを着ているということは雨に濡れなくてはならない状況です。

ではなぜ雨に打たれる必要があるのかというと先ほど説明したように雨は虹を呼ぶ為のもの。
その為に体を認識の雨に晒さなくてはならない。
つまり虹とは自分自身なのです。

うまく手は繋げない それでも笑う

私たちも世界を違った角度で見なくてはいけないのでしょう。
見えない壁に気づき自分の違った側面を手に入れる。それを見た周りの人は私に対する固定のイメージを払しょくして私への認識が変わる。

それによって周りの人も固定概念に囚われていたことに気づくでしょう。

虹を呼ぶには雨と太陽のような光が必要です。その役目を果たすのは壁に気づいた私たち一人ひとりであり、
その光が虹のようにいろんな側面を持っていることに周りの人は気づくでしょう。

私たちはみんな光なのです。
同じ虹を待っているとはみんなが壁に気づき人の持つ7色に気づくこと。

虹とは私たちのことなんだと思います。

でも私たちは虹とは違いそれぞれ違う体を持った“個”です。だから虹の7色のように常に寄り添っていることはできない。
私たち人間はうまく手を繋ぐことはできないのです。

それでもそれぞれが互いの違いを認め合い、一人一人の人間にいろんな側面があることに気づいていければ
虹のように常に手は繋げなくてもみんなが笑って自由に生きていける世界になるでしょう。

言葉とは“違い”を説明するものだと思っています。自分と相手との違いを知るために言葉が生まれた。
自分だけでは自分を認識できない、相手という鏡が必要。
始めがあれば終わりがある。表があれば裏がある。

この世界は2つで1つの世界です。これは世界が1つであることの証明であると思っています。

みんな同じ雨の下 同じ虹を待ってる

この曲は世界平和の歌であり私たち人間、生き物が本質的に一つだということを伝えようしているのではないかと思いました。
私たちは周りの人にこうなってほしいと強制することはできません。たとえ世界平和であっても・・・

できることはみんながそれぞれ違った色を持っていること、それにその色は一つに囚われていないことに気づくこと。

人間も光とように“波”となりみんなと繋がったり、“粒”となり個性を持った存在となったり2つの性質を同時に持っているのです。

それは言い換えると、それぞれ違う自分の色を持った全人類が集まって虹を作れる。そして同時に自分の色も自分だけが持つ虹色だということ。

それに気づくように祈って待つこと。
私たちはみんな同じ雨の下、同じ虹を待っている。

虹を待つ人の感想

私はこの「虹を待つ人」を認識をテーマにした歌だと解釈しました。

“虹”一つだけで光、波、粒、七色だったりと様々な側面を持っており人間の無限の可能性を表すにはうってつけの言葉だと思います。

それに虹=七色というのも共通認識で実際には虹の一つ一つの色の間にも細かな色の違いがあり、例えば赤とオレンジの間には朱色とかピンクとかあるわけで突き詰めていくと無限の色があるのです。

それから最初に書いたシンセの音ですが、シンセサイザー、語源は「synthesize」で意味が合成するとか、いっしょにするという意味なんです。もともと交わることのない音をいっしょにするんです。
これは人間も一つになれるってことを伝えたくて使ったのではないでしょうか?

あとコーラスのOHと言う声は言えないままの痛みとか冷たいままの痛み、そして外や内側からの音、自分を奮い立たせるものを表した声なんじゃないと思いました。
一つの楽曲の中にも虹のようにいろいろな側面がある。「虹を待つ人」という楽曲自体も虹のような存在で、私たちにメッセージを送り虹の世界になることを待っている。まさに虹を待つ人である。

 

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